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2007年11月11日

本能寺のこと

本能寺の変。この問題の背景には何があるんでしょうか。

天正10年(1582年)5月、駿河拝領の礼のため、降伏した穴山信君とともに信長の居城・安土城を訪れた。

6月2日、堺で遊覧中に京都で本能寺の変が起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数だったので、きわめて危険な状態となり狼狽し信長の後を追おうとするほどであった。このとき、本多忠勝に説得され家康は服部半蔵の進言により伊賀越えを決行し、加太越を経て伊勢の国から海路三河にかろうじて戻った(神君伊賀越え)。 その後、家康は明智光秀を討つために軍勢を集めて尾張にまで進軍したが、このとき中国から大返しした羽柴秀吉(豊臣秀吉)によって光秀が討たれたことを知った。

一方、信長の領土となっていた旧武田領の甲斐と信濃で一揆が起こった。さらに越後の上杉景勝、相模の北条氏直も侵攻の気配を見せたため、信濃の森長可と毛利秀頼は領地を捨てて逃亡し、上野の滝川一益は北条氏直と戦って惨敗し、尾張に撤退する。甲斐の領主・河尻秀隆に至っては、武田家の税法や慣習を認めず、一方で大規模な武田の残党狩りを行い、領民や旧武田浪人から恨みを買っていたため、信長の死を契機として一揆が発生し、攻め殺されてしまった(ただし家康が影で煽動したという説もある)。このため、甲斐・信濃・上野は領主のいない空白地帯となり、家康は武田氏旧臣の岡部正綱、依田信蕃を先鋒として甲斐に派遣し、自らも8,000の軍勢を率いて、甲斐に攻め入った(天正壬午の乱)。

一方、甲斐と信濃が空白地帯となったのを見た相模の北条氏直も、叔父の北条氏規や北条氏照ら5万5,000人の軍勢を率いて碓氷峠を越えて信濃に侵攻する。北条軍は越後から北信濃に侵攻していた上杉景勝軍と川中島で対峙した後に、北信4郡を上杉に割譲することで和睦し、南下する。次いで甲斐へ侵攻中だった徳川軍と甲斐新府城、若神子で対陣。ここに徳川軍と北条軍の全面対決の様相を呈したが、徳川方の依田信蕃の調略を受けて徳川方に寝返った真田昌幸らの執拗なゲリラ戦法の前に戦意を喪失した北条方は、板部岡江雪斎を使者として家康に和睦を求める。和睦の条件は、上野を北条が、甲斐・信濃を徳川がそれぞれ領有し、家康の次女・督姫が北条氏直に嫁ぐというものであった。こうして、家康は北条氏と縁戚関係を結び、同時に甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5カ国を領有する大大名へとのし上がったのである。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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